売り買いする世界

 現在の資本主義は、人間がものを売り買いすることで成り立っており、その行為は私たちの生活でごく当たり前のものとして受け入れられている。しかし、多くのSF作品、「スタートレック」、「猿の惑星」で描かれる未来では、売買の行為は淘汰されている。なぜそう考えるのだろうか。

 おそらく生活が十分豊かになって、あらゆる物資にすべての人が自由にアクセスできるようになっているという未来が想定されているからではないだろうか。物資が十分すぎるぐらい豊かだから、何かを得るために労働対価を支払う必要はない、いつでもほしいときに欲しいものが手に入る。よって自分の財産を確保する必要もない。

 ではどうやってそのような生活の豊かさを実現できるのだろうか。人工知能が人間のかわりに、今よりもはるかに高い生産性で労働してくれているからだというのは一つの説だろう。

 売買行為のない社会へのパラダイムシフトはいつどのように起こるだろうか。現在富の99パーセントが人口の1パーセントに集中しているこの時代、そのような独占がなくなり、富が分散され、かつさらに物質的に豊かになる時代。

 

仏教と物理学

 

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

 

  上記の本を読んだ。物理学と仏教の共通性を紐解きながら、世の中の真理はなんなのかについて、物理と仏教の専門家が対話していく。

      科学と宗教は相容れないと思っていたが、物理学の世界を客観的に理解しようとする営みと、仏教の自分の心の偏見を排除していこうとする試みが一致しているため、二人の専門家の話はうまく噛み合っていた。

     仏教僧は自分の心の声に耳を傾け、煩悩を排除していくことで世の中のありのままを見ようとする。科学者も同様に、世の中を支配している原則は何なのか、偏見や主観なしに探求していく。

    話は変わるが、物理学者の話で、生命はエントロピーが減るような進化を遂げており、これは熱力学の第2法則に反しているというものがあった。単細胞から多細胞に変化する過程はまさにその現象に該当する。シュレディンガーは、負のエントロピーの概念を定義し、この現象を説明しようとした。生物は食料などの化学エネルギー、もとをたどればそれは太陽の光エネルギーになるのだが、を摂取することで自身のエントロピーが増加するのを防いでいるという説である。

    

    

自由意志はあるか

 自由意志はあるか、という問いがよく投げかけられるが、これはまず問題を解ける段階まで具体化する必要がある。人間は、決定論的に行動を決定しているのか、それとも非決定論的なのか。決定論的行動とは、何か物理的な現象を原因として行動すること。逆に非決定論的行動とは、どんな物理現象にも左右されず、自らの意思を出発点として行動することである。

 私は、人間には決定論的に行動するときと、非決定論的に行動するときの両方があると考える。決定論的に行動するケースには以下のようなものがあると思う。感情的になって自分をコントロールできなくなった時、熱いものを触ったときとかに反射的に回避行動をとる時、いつもと変わらない習慣的行動をとる時(ファスト&スローにおけるシステム1最小努力の法則か?)、などがあげられる。逆に非決定論的に行動するときは、現状を客観的に把握し、次とるべき行動を理性的に決めているとき(ファスト&スローにおけるシステム2だろうか?)

 途中でふでをとめた

茶の本

 

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)

 

 岡倉天心の「茶の本」を読んだ。茶道が道教・禅道に通じ、東洋的な審美観をもとに形作られたことを述べている。また、西洋文化に見下されている東洋文化の価値を復興しようとする気概がうかがえる。当時は戦後間もないということもあって、日本文化に対する蔑みが強かったのだろうか。

 茶室にみられるような美は、現在の日本の建築様式からは抜け落ちてしまった。おそらくコストに対する利便性が、西洋建築様式には及ばなかったからなのだろう。しかしながら、茶室のような東洋美は、間違いなく文化として保全されるべき価値のあるものである。よって、前のマイケル・サンデルの話ではないが、市場原理だけでは測れない美の規範があることがここにも見て取れる。

 

こうやって、考える。

 

こうやって、考える。

こうやって、考える。

 

  外山さんの「こうやって、考える」を読んだ。自分にとって印象的だったのは、空白の時間をつくり、自分でぼーっと考える機会をもつことの大切さが書かれていたことだ。

 自分の生活を振り返ってみると、仕事以外の時間は本を読んでいて、それが飽和状態になったら別の本を読んで、さらにそれがまた飽和状態になったらnetflixで英語の勉強をしている。このように、常に何かをしている状態を保っている。この習慣だと、自分の頭で考える時間を持つことができていないように思う。

 筆者が進めているのは、散歩。また欧陽脩という人が進めているのは馬上 枕上 廁上。これから実践してみたい。